80歳のご婦人が、ご自身の戦争体験を語って下さいました。
地域支部の同志と一緒に後援会員さんを訪ね、「集団的自衛権行使容認」に反対する署名への協力をおねがいしたときの話です。
多くの方に是非聞いていただきたいと思うお話ですので、ご紹介します。
(太平洋戦争も末期の頃、徳島大空襲のときの体験です。写真は、ブログ「徳島大空襲」から引用)
町内会でつくった大きな防空壕に避難したところ、焼夷弾の直撃を受け、160人あまりの避難者のほとんどが亡くなった。生き残ったのはたった11人。奇跡的な生還でしたが、顔も両腕もひどい火傷で、眼も口も両手も皮膚が癒着していたそうです。当時は戦争末期で薬も足らず、足手まといの女、子供より、お国の役に立つ兵隊さんが優先。生き残った11人も、まともな治療も受けられず苦しんだそうです。
医師からは、両腕切断をすすめられたそうですが、父親が、「両腕がなくなれば生きていくことはできない」と断り、火傷の皮膚に油をかけるだけの治療を続けたそうです。その後、火傷が落ち着いた頃、皮膚の切開術を受けたそうですが、眼瞼や口角、両手指を切り開く大手術なのに、レントゲン検査もできないため、骨の位置を確認することもなく、医師の手探りでの手術。それも、兵士の手術のために残しておく必要があるからと、麻酔もなしだったそうです。子供にはとても耐えられる手術ではなく、痛みと恐怖で泣き叫び、失神してしまったそうです。
生き残って傷が癒えたのが奇跡のような体験ですが、子供で回復力が強かったせいか、火傷で癒着したことがわからないほどきれいになおったそうです。なんと、そのせいで、罹災証明がもらえず、戦後も何の補償も受けることができなかったそうです。
「こんな悲惨な体験をなぜしなくてはいけなかったのか。今でも悔しい想いだ、 戦争は絶対にダメ!(戦争への道を)止めるために、頑張ってほしい。忙しいだろうに、こんな年寄りの話を聞いてくれてありがとう。」と涙ながらに語って署名してくださいました。
聞いていた私も、支部の同志も涙があふれました。今日の、この方との出会いを忘れず、何としても「戦争への道」を止めるため、頑張ろう。格別の想いを抱いた経験でした。